明智光秀 本能寺の変後、生き延びていた!?6の続きです。
前回は吉田神道の吉田兼見が日記を書き換えて居た事、そしてその理由を説明しました。今回は光秀と親交の有ったもう一人の文化人、細川藤孝(幽斎)に付いてお話しようと思います。
天文3年4月22日(1534年6月3日)生れの細川藤孝は光秀よりも6歳年下で光秀と同様に、武術に秀で又和歌の名手でも有り当代一流の文化人で有りました。剣術は室町幕府第13代征夷大将軍の足利義輝と同じく、かの生涯不敗の剣客、塚原卜伝から教えを受けています。
光秀が細川藤孝と親密に成り遂には盟友、親友、親戚と迄に成ったのは、武将同士と云うより互いに有職故実に明るく、和歌、茶の湯を愛する文化人としての交流の結果で有ったと思うのです。
此の交流の場には連歌師・里村紹巴、神道家・吉田兼見、茶人・津田宗久、山上宗二等が常連で在ったようです。その中でも細川藤孝とは特別に深い交わりを持って居たのは前記の通りです。その細川藤孝が本能寺の変後に光秀から援軍の要請が有ったにも拘らず、動かなかった。藤孝は髪を切り、光秀にその髪を届けてから後、幽斎を名乗る様に成ります。
この時、盟友に裏切られた光秀は死を覚悟した事でしょう。藤孝は事前に本能寺襲撃を知って居たフシが有ります。織田信長が安土城で家康を饗応した5月15日から17日の間に同じく招かれて居た兼見卿に密かに告げて居ました。「信長公が本能寺に居る時は其処へ近付かぬように」と、此れの意味する処は言うまでも無いでしょう。
続く~
yasanama 12月9日 今日はお仕事で明智光秀で有名な京都福知山へ。 ホテルでお疲れ様ビール。 アサヒの新黒ビールを試したにゃん。 #エピタフ を聴きながら。合掌。 https://www. instagram.com/p/BNzKfiwBgib/ 0件の返信 0件のリツイート 0 いいね
— (yasanama) August 13, 2016
明日は明智光秀が築城した福知山城を攻めようと画策。ただ天気が非常に芳しくない!
— あだかえ (@Adakae) November 26, 2016
福知山を中心に活動しているhappy3days(日本語にすると、多分三日天下の事。明智光秀の事をディスってるっぽいw超絶かわいいアイドル)に気に入ってもらえた。
— 明智茶屋 (@akc_japan) December 8, 2016
嬉しい(^^) https://t.co/dDDcZQmfMU
京都/御霊神社(福知山市)
— Shrine Master (@jun_shrine) December 7, 2016
境内に入ると稲荷の感じがしましたが、稲荷の名前でなかったので不思議に感じてました。どうも元は倉稲魂命を祀っていたが、後に明智光秀を合祀したため名前を変えた?🤔境内には堤防神社という神社も鎮座します👀京都市内の御霊神社とは雰囲気全然違います。 pic.twitter.com/rmWSBO9dAA
光秀も絶賛?京都・福知山スイーツ、新名物続々https://t.co/YCnyZ9rbOm
— ゆーちゃん (@__cutegirllove) December 13, 2016
戦国武将明智光秀が基礎を築いた福知山城がシンボルの京都府福知山市。お城ファンの人気アイドルグループNMB48の山本彩さん(23)が「好きな城」と紹介したこともあり、近年、来場者が…